1066346 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

雲隠りゆく飛鳥・大津の皇子

安倍の文殊院を出て、まっすぐ西へ向かうと御厨子神社があります。
今回の旅の一番のメインです。

御厨子

御厨子神社の入り口に磐余の池跡があるのです。

大津の皇子が死を賜った時に、磐余の池の堤で涙を流して読んだ歌

「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠れなむ」と書かれた碑がありました。

(これまで盤余の池で鳴いている鴨を見てきたが今日を限りに死んでいく)

磐余池跡

大津の皇子というのは天武天皇の皇子でありながら、謀反の罪をきせられて殺されてしまいます。
そのときに、涙を流して歌をよみました。

なんと悲しい歌ではないでしょうか。

ところで、天武天皇は天智天皇の娘を4人妃にしています。
特に注目すべきは蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘の娘である、大田皇女とウノノサララです。

簡単に言うと、天武天皇の妃に姉の大田皇女と妹のウノノサララがいたのです。
姉、大田皇女との間には大伯皇女と大津の皇子が生まれました。
妹、ウノノサララには草壁の皇子が生まれました。

天武天皇は本当は優しくて美しい姉の大田皇女をより愛していたのかもしれません。
しかし、残念ながら大田皇女は若くして亡くなってしまうのです。


大津皇子についての。『懐風藻』での記述です。
大津皇子は天武天皇の第1皇子である。丈高くすぐれた容貌で、度量も秀でて広大である。
幼年の時より、学問を好み、知識が広く、詩や文をよく書かれた。
成人すると、武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った。
性格はのびのびとし、自由に振舞って、規則などには縛られなかった。
高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く待遇した。

つまり、大津の皇子は大変背も高くハンサムでした。
また頭もよく、人からも好かれる性格だったのです。
また、人望もあり後継者としてはもってこいです。

しかし、なんといっても母を失ったのが悲劇の始まりだったのです。
大田皇女の妹、ウノノサララは大変強い女性でした。
(後に持統天皇となり君臨する女性です。)

なんとしても後継者は大津の皇子ではなく、天武天皇と自分との間に生まれた皇子、草壁皇子に継がせたいと考えていました。
残念ながら草壁の皇子は、容姿、頭脳、人望、総ての面において大津の皇子の方が勝っているではありませんか。

このままでは、人心は大津の皇子へと向きつつあります。
ウノノサララは考えました。
こうなったら、大津の皇子を殺すしか手はないのだと。
謀反の罪をかぶせて処刑してしまおうと。

大津皇子は捕らえられ、殺されます。
その直前にこの磐余の池でよんだ歌がさっきの歌なのです。

なんとも悲しいお話です。
私と先輩はその碑の前に長い間立ち尽くしていました。
今は池はなくなっていますが、このあたりに間違いはないのです。

その碑の前に二人がけの小さな椅子がありました。
私と先輩はその椅子に腰掛け、大津の皇子をしのびました。

大津の皇子がなくなってから、姉の大伯皇女が読んだ歌です。

  うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(イロセ)と我見む

二上山に眠る弟に今日からは、その山をあなたと思って見ます。
と言うような歌なのでしょう。

若くして死ななければならなかった大津の皇子、悲しいですね。
お姉さんがどんなに悲しんだかを思うと胸が痛みます。
お姉さんだけではありません、その時代のたくさんの人が悲しんだのでしょう。
そして時代を超えて、私たちにもその悲しみが伝わってきます。

周りの水田は稲が植えられたばかりです。
紫陽花が綺麗に咲いています。
大津の皇子について長い間話をしました。

大津の皇子とその恋人石川郎女の歌も声に出して読んでみました。

あしびきの山の雫に妹待つと われ立ち濡れぬ山の雫に
(いとしいおまえが来るのを待っていると、山からの雫にこんなに濡れてしまった)

我を待つと君が濡れけむあしびきの山の雫にならましものを(石川郎女)
(私を待つためにあなたが濡れたというその雫に私はなりたかった)
  
なんとシンプルで愛のこもった歌でしょう。

私と先輩はいつまでもその場にとどまりたかったですが、そろそろ次へ行くことにしました。
では、次回に続きます。

次は吉備池と磐余稚桜神社へ行くことにしました。







© Rakuten Group, Inc.